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当記事では、広島の街中にある

原爆ドーム

広島平和記念公園

広島平和記念資料館

 

を紹介しています。

 

核兵器の惨状を伝える原爆ドーム『広島平和記念資料館』。犠牲者の魂を慰め、恒久の平和を願う『広島平和記念公園』。これらは、平穏な毎日がどれほど尊いものかを教えてくれます。

 

ぜひ、世界中の人々に訪れてほしい場所です。

 

JR広島駅からは約2キロ。アクセスには路面電車やバスを使うと便利です。また、宮島〜原爆ドームをつなぐ高速船「ひろしま世界遺産航路」もあります。

 

それではご覧ください。

 

 

原爆ドームとは

原爆ドームとは一体何か?

 

その存在こそ有名ですが、詳しいことまで知らない・・・という人も多いかもしれません。ここでは詳細に触れながら、見て感じたことをお伝えしますね。

 

原爆ドームは、元々広島県の物産を展示したり、販売したりする施設でした。

 

設計を手掛けたのは、チェコの建築家ヤン・レツル氏。ドーム状の屋根を持つ、木材+煉瓦+鉄筋コンクリートの3階建てです。当時としては、前衛的でおしゃれな建物だったのではないでしょうか。

今や、被爆後の姿の方が有名になってしまいましたね。保存のため、現在は建物の周りには柵が設けられています。目の当たりにすると、その凄惨さに声が出ませんでした。

 

頑強な建物も、この有様です。中にいた人は全員即死だったらしく、こんな丈夫そうな建物の中でも命を守れなかったのか・・・と、ただ驚くしかありません。

 

このドームのすぐ横には、元安川という大きな川が流れていますが、この川の中には現在も被爆者の遺品や被害にあった建物の部品が沈んでいるのだとか。水を求めて飛び込んだ人も多く、遺骨もあると言われています。

 

私はそうとは知らず、宮島から「ひろしま世界遺産航路」の船でこの川を通ってきました。

 

穏やかな川辺には、現在オシャレなカフェなどが立ち並んでいます。そんな街並みと原爆ドームが同時に視界に入ると、原爆ドームが「何年経っても忘れないで」と語りかけてきているような気がしてなりません。

 

『原爆ドーム』は核兵器の根絶と世界平和を願って、1996年に世界遺産に登録されました。

 

 

原爆ドームと平和記念公園

原爆ドームと川を挟んで隣接する、『広島平和記念公園』。

かつてこのあたりは繁華街だったそうですが、現在は都市公園となっています。

こちらは、公園内にある「動員学徒慰霊塔」です。

 

広島市内では建物疎開のため、国民学校高等科以上の生徒が約8400人作業にあたっていました。そして、そのうちの約6300人が亡くなっています。

 

(建物疎開=空襲による市街地の大規模火災を防ぐため、木造民家等を解体する)

 

この塔は遺族の献金により完成しました。

正面には観音像、壁画の裏側には亡くなった学徒の方々の出身校が刻印されています。

児童雑誌「赤い鳥」の創刊者である鈴木三重吉の胸像もありました。鈴木氏は広島市出身なのですね。隣の碑文の上には、子供が2人腰掛けています。

頭上に折り鶴を掲げる、「原爆の子の像」。

その後ろには、色とりどりの千羽鶴が飾られています。

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千羽鶴=平和の象徴というイメージをお持ちの方も多いのでは?実はこれには、被爆者である佐々木禎子さんが深く関係しているのです。

 

禎子さんは2歳の時に被爆し、10年後に白血病を発病、その翌年亡くなりました。闘病生活を送る禎子さんは、病気の治癒を夢見て千羽鶴を折り続けていたそうです。

 

その後募金により、禎子さんのように亡くなった子どもたちを偲ぶための「原爆の子の像」が建てられました。現在も年間で約1000万羽にものぼる折り鶴が寄贈されているようです。

「平和の鐘」は世界平和を目指すためのシンボルとして「原爆被災者広島悲願結晶の会」によって1964年に設置されました。

 

世界中のすべての人へ響きますように・・・という願いのもと、誰でもつくことができるようになっています。

「原爆死没者慰霊碑」

石室には、原爆で亡くなったすべての人の名前が記された名簿が納めてあるそうです。

 

設計は丹下健三氏で、「犠牲者の魂を雨露から守る」という思いを込めて、屋根が設置されています。

 

石碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていました。

 

この慰霊碑にはお線香と花束が手向けられ、手を合わせるために多くの人が列を作っていました。

 

 

原爆ドームの資料館

 

原爆ドームと併せて見て欲しいのが、『広島平和記念資料館』です。ここでは被爆者の遺品や手記、インタビューなどを見ることができます。

 

今回は、私が特に印象的だったものをいくつか紹介しますね。

 

【遺品】

《時計》

爆心地から約200メートルの理髪店跡にて見つかった、壁掛け時計が展示されていました。黒く煤け、時刻は8時15分を示しています。

 

原子爆弾リトルボーイが投下されたのは、1945年8月6日午前8時15分。一瞬で街が爆風と炎に包まれたことがうかがえます。

 

《人影の石》

住友銀行広島支店の玄関前の石段が展示されていますが、一部が黒く影のようになっています。

 

この影の部分には人が座っていようです。原爆により建物は焼けて白く変色したが、誰かが座っていた部分だけは直接熱線を浴びなかったから黒っぽい・・・とのことでした。

 

「座ったまま」というのが、一瞬の出来事であったことを物語っています。立って逃げる間もなかった・・・ここに座っていた人は、何が起こったのかすらも分からなかったのでしょうね。

 

《三輪車》

当時3歳だった男の子の遺品です。男の子は三輪車で遊んでいるときに被爆し、全身に大火傷を負いました。水を欲しがりながら、その日のうちに亡くなったそうです。

 

お父さんは遺体と共にこの三輪車を庭に埋めて、天国でも遊べるように・・・と願いを込めた、とのことでした。

 

無邪気に遊んでいた、たった3つの子。その可愛らしい姿を想像して、人目も憚らず泣いてしまいした。

 

【映像「星は見ている」】

「星は見ている」は、全滅した広島一中の一年生の家族による手記集です。これを映像化したを見られるコーナーがありました。

 

その中でも特に印象的だったのは、大井孝三さんの追悼記。孝三さんは犠牲になった礼三さんの兄で、なんとか弟の手がかりを探そうと被爆した校内を探し歩きました。

 

すると「大井礼三」と記名のあるアルミ製のお弁当箱を見つけます。蓋を開けると、湯気と共に黒焦げになったご飯が。

 

しかし、ご飯の表面の炭を払うと、白いご飯が出てきます。まだ温かかったそうです。

 

空っぽにして帰ってくる。そう思って詰めたご飯だったに違いありません。

 

【インタビューより】

被爆者のインタビュー映像を閲覧できるコーナーで、ある女性が語った言葉がとても印象的でした。

 

「広島市は、街全体がお墓。そう思って歩いている」

 

原爆により一瞬で死屍累々となった広島の街。この後私は徒歩で駅に向かったのですが、歩いている間ずっとこの言葉が頭から離れませんでした。

 

【お客さんの様子】

普段、博物館や美術館では展示に没頭してしまう私も、なぜかこの時ばかりは「何を感じているのかな」「どんな表情をしているだろう」と、他のお客さんの様子が気になりました。

 

まず私が感じたのは、「一人で来ている人が多い」ということです。かくいう私も一人だったのですが・・・

 

「この出来事に一人でじっくりと向き合いたい」そんな思いで足を運ぶ人が多いのかな?という印象を受けました。

 

もう一点印象的だったのが、大学生くらいの若い人がとても多かったこと。映像コーナーで手記を眺めていたのはほとんどが若い人で、みんな一言も交わさず、噛み締めるように見ていました。

 

そして、啜り泣きがあちこちで聞こえたことです。私が焼けこげた三輪車を見てポロポロ泣いていると、隣にいた女性も顔をハンカチで抑え、肩をふるわせていました。

 

 

まとめ

 

『原爆ドーム』は、核兵器の惨状を示すことのできる、世界でたった一つの現存建造物です。

 

『広島平和記念公園』では、幅広い年齢や国籍の方が祈りを捧げていました。

 

そして『広島平和記念資料館』に展示されている遺品や遺族の手記は、ここにいたたくさんの人の命があっという間に失われたということを教えてくれます。

 

伝いえたいことは山のようにありますが、とても総括できそうにはありません。なぜなら私の言葉なんかよりも、ここにあるものがずっと雄弁に語っているからです。

 

「とにかく見てほしい」この一言に尽きます。どうか一度、訪ねてみてください。

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