当記事では、長崎県長崎市の
を見て感じたことを、ありのままに紹介しています。
ここは原子爆弾による悲劇を訴え、犠牲になった人々へ祈りを捧げ、恒久の平和を願う場所です。
心踊るような観光スポットではありませんが、長崎に訪れた際には是非とも足を運んでいただきたい・・・そんな思いを込めて書きました。ぜひご覧ください。
原爆資料館をレポートします
ここでは『原爆資料館』についてレポートします。
『原爆資料館』へのアクセスは、路面電車駅「原爆資料館」もしくはバス停「平和公園前」からが便利です(いずれも徒歩5分)。
資料館の中は、以下の4コーナーに分かれています。
A |
1945年8月9日 |
B |
原爆による被害の実相 |
C |
核兵器のない世界を目指して |
D |
ビデオルームなど |
【A 1945年8月9日】
ここには
・米軍機が撮影したきのこ雲
・投下時刻(11時2分)で停止した時計
などが展示されています。
この時計は、爆心地から800メートルほど離れた民家にあったものだそうです。
800メートル・・・というと、結構離れている印象を受けませんか?しかし、そこにあった時計が時差なく止まっているということは、爆風が猛烈に吹き荒れたことを示しています。
何が起こったのかも分からないまま、大勢の人が亡くなったことがうかがえる資料です。
【B 原爆による被害の実相】
このコーナーでは、長崎の街が見舞われた惨状について、理解を深める資料が数多く展示されています。今回はその一部をピックアップして紹介しますね。
《浦上天主堂の惨状》
ここには被爆当時の天主堂の様子(玄関付近)を再現したものが展示されており、崩れ落ちた瓦礫の山が、まざまざと当時の様子を語っています。
原爆が投下された時、浦上天主堂では告解が行われていました。礼拝堂には神父2名と信徒が数十名いましたが、建物の倒壊により全員が死亡しています。
30年もの歳月をかけ、教徒たちがレンガを積み上げ完成させた高い双塔を持つ浦上天主堂。本来頑丈な建物だったのではないでしょうか。
付近では信徒の持ち物である、煤けたロザリオが発見されています。形が残っているものはほんの僅かで、ほとんどが粉砕してしまったようです。
《ファットマンの実物大模型》
長崎に投下された原子爆弾は、そのずんぐりとしたフォルムから「ファットマン」と呼ばれており、その実寸大の模型が展示されています。
長さ |
3.25メートル |
直径 |
1.52メートル |
重さ |
4.5トン |
数字だけ見ると「大きいな」と感じますが、模型を見ると「あの膨大な被害をもたらしたものとしては、小さい」という印象でした。重さに至っては、小型トラックくらいなのですよね。
中心にプルトニウム239を置き、その周りを爆薬で覆い、爆発によって中央のプルトニウム239を限界まで圧縮し、核分裂を起こす・・・という仕組みで、広島に投下された「リトルボーイ」とは違うメカニズムを持っているそうです。威力自体は、ファットマンの方が高かったのだとか・・・。
しかしながら、80年も前のものとは信じがたい科学力です。なぜその力を、こんなことに使ってしまったのでしょうか・・・。
《なぜ長崎に?》
なぜ、広島と長崎が選ばれたのか。
実は、候補地には
東京湾、川崎、横浜、鎌倉、新潟、名古屋、大阪、神戸、京都、福岡、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、佐世保・・・
など、多くの地域がリストアップされていたそうです。
協議が進み、この中から京都、広島、横浜、小倉に候補は絞られます。これを知って横浜出身の私は、形容しがたい恐怖感を覚えました。
ではなぜ、横浜が外されたのか?それは同年5月に、大規模な空襲があったからだそうです。原子爆弾の脅威を試すには、すでに被害を受けている都市ではない方がいいだろう・・・と。
そうして決定したのが、広島と小倉(福岡)。しかし8月9日当日の小倉は雲に覆われ、視界不良でした。そのため、第2目標である長崎に投下されることに・・・。
《ビラ》
原爆投下日の数日前、米軍機は上空から長崎の街にビラをばら撒きました。ビラには原爆の脅威や広島への投下、市民に対し退避を推奨する旨などが書かれており、その実物が展示されています。
長崎への投下は当日決定でしたが、第2の候補地として綿密な計画が練られていたことが分かる展示品。あまりにも不気味な予告状です。
《永井隆博士の献身》
永井隆(ながい・たかし)博士は長崎医科大学附属医院の助教授を務めていました。同病院の診療室にて被爆し、右側頭部脈を切断するという重傷を負いながら、患部に布を巻いて救護活動を行ったそうです。
その後は自身も後遺症を抱えながら、原爆障害の研究やテーマ発表に励みつつ、「長崎の鐘」「この子を残して」などの随筆を執筆。1951年5月、白血病による心不全で亡くなりました。
ここに展示されているのは、闘病中の5年間に残したとは思えないほどの功績の数々です。
研究を通して平和を訴え続けた永井博士。科学技術は、永井博士のような知性と道義心を持った人によって、研究され、発展してほしいと感じました。
【C 核兵器のない世界を目指して】
このコーナーには第二次世界大戦後の世界情勢、核開発に関する歴史などが解説されています。
これほどの悲劇を引き起こした核兵器ですが、驚くことに「使いやすく」「より強力に」と開発が続いています。長崎の惨状や永井博士の献身を見た後では、ただ怒りが沸くばかりでした。
一方で、反核運動の様子なども展示されています。唯一の被爆国である日本は、核兵器の廃絶を訴え続けています。しかし、その声を世界に届けるためには、もっと強く叫ばなければ・・・。
【D ビデオルームなど】
長崎県と長崎市が共同制作したアニメーション「8月9日長崎」の上映や、全50問からなる原爆や平和についてのクイズがあるコーナー。
このクイズは、展示から得た知識を確かめられるものなので、「頭に刻み込んで帰りたい」という人はぜひチャレンジしてみてください。
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のレビューです
続いては『国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館』のレビューです。ぜひ『原爆資料館』の展示とあわせて見学してみてください。
【1 遺影・手記閲覧室】
被爆者の遺影や体験を綴った手記などを閲覧できるコーナー。
【2 追悼空間前室】
追悼空間入り口前の、小さなお部屋。心を静めるために設置された空間です。
【3 追悼空間】
原爆によって亡くなった人々を追悼する、吹き抜けの静かな空間です。死没者の名簿が収められた棚があり、この棚は爆心地の方向を向いています。
《4 平和情報コーナー①》
被爆者へのインタビュー、朗読作品の上映、医療従事者の活動などが紹介されています。
《5 平和情報コーナー②》
自由にメッセージを残せるお部屋です。パソコンでもカードでもOK!書いたメッセージは10年間保存されます。
閲覧コーナーには、小さな子供が覚えたての字で一生懸命書いたものや、さまざまな国の人からのメッセージがありました。
《水が流れる館内》
祈念館には、あらゆるところに噴水や水盤があり、絶えず水の音が聞こえています。
この水には「水を欲しながら亡くなった人々への弔い」の意味が込められているそうです。
原爆資料館の平和公園とは
『原爆資料館』などを有する『平和公園』は、5つのエリアに分かれています。
願いのゾーン |
平和祈念像、平和の泉 世界平和シンボルゾーン |
祈りのゾーン |
原爆落下中心地地区、歌碑など |
学びのゾーン |
原爆資料館、 原爆死没者平和祈念館など |
スポーツのゾーン |
野球場、プールなど |
広場のゾーン |
陸上競技場、弓道場など |
先に紹介した資料館と祈念館は、「学びのゾーン」にあります。
ここからは、「願いのゾーン」について少しご紹介しますね。
《平和の泉》
祈念館の噴水同様、水を求めながら息を引き取った人々への追悼の意を込めた噴水です。中央には、のどの乾きを訴える少女の様子を描いた詩碑が設置されています。
《平和祈念像》
「平和の泉」の奥へと進むと、有名な「平和祈念像」が鎮座しています。
長崎出身の彫刻家・北村西望(きたむら・せいぼう)が手がけた像に込められているのは、「神の愛」と「仏の慈悲」。
台座の裏には、ポーズと表情が示す意味について刻まれています。
右手 |
原子爆弾 |
左手 |
平和 |
目 |
死没者の冥福を祈る |
大きくて迫力がありますが、不思議と威圧感はありません。表情がとても優しい感じ。青銅の色が、清らかな水を彷彿とさせます。
しかし、天を差す右手が「原爆」を意味すると知って、ドキリとさせられました。決してこの悲劇を忘れないように、繰り返さないように・・・と語りかけられているような、そんな気がします。
《長崎の鐘》
1977年、原爆投下から33回忌を迎えた年に建設された、軍需工場に勤務していた人のための慰霊モニュメントです。
この他にも公園内には世界各国から寄贈されたものなど、多くの像が立ち並んでいます。その全ての共通点は「慰霊」「恒久の平和への祈り」が込められていることです。
《浦上天主堂》
平和公園からは、再建された浦上天主堂を眺めることができます。
まとめ
いかがでしたか?
2025年、原爆投下からついに80年を迎えます。
近年はこの悲劇の風化が懸念されていますが、私はここへ訪れて「今も学ぼうとしている人たちがたくさんいる」と感じました。
それと同時に、社会科の教科書で学んだことが、ほんの一部でしかないことも知りました。ここで触れた内容も、全てではありません。
平和を願うこと、祈ることはもちろん大切です。しかし、私たちは被爆国の出身者として、もっと原爆について知識を身につける必要があります。
「また行こう」と気軽に思える場所ではありません。でも、見てきてよかった。きっと誰もがそう感じる場所だと思います。